村上 智彦
1978年北海道恵庭市生まれ。GEN COMPANY代表。札幌市立高専建築デザイン卒。関西を中心に社寺建築の世界に携わり、2012年から拠点を恵庭市に移し、大工、建築家、デザイナーの立場を行き来しながら幅広く活動。
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高い標高にある長いトンネルをいくつか抜け、急に視界が開ける。ここは道東自動車道。占冠を超え十勝平野が広がる風景。ハイエースの荷台には新巻鮭を入れる木箱、鮭箱で作られた鞄や楽器、家具が積まれている。目指すは釧路。
鮭箱との出会いは12年前。関西からUターンした僕は、地元の恵庭市の離農した農家の家を家族で2年かけてリノベーションしていた。
大工が自分で自分の家を建てるのは難しい。よく聞いてはいたが、実際にやってみて驚くことばかり。まず、施主がいない。(自分が施主だとお金を払ってくれる人がいない)そして、その期間、他の仕事が出来ない。(無給で働き、ほかの仕事もできない)という当たり前のことに、愕然とした僕は、考えた結果、少しでも工事費用を節約しようと、その土地にあるもの、余っているものを使おうと決めた。
材料は買わずに地元を見渡し、余っているもの、譲ってもらえそうなものを聞いて歩き、解体現場や時にはご近所さんから様々なモノを戴き、使えるものから家に取り付け、2年もかかったがようやく人が住める家になった。
その時の素材集めの中、地元のカニ屋さんの駐車場の片隅に積んであった鮭箱にどうしても惹かれてしまった。
北海道を離れて12年ほどが過ぎ、Uターンした頃は北海道の澄んだ空気や広い道路に感動し、そしてなぜか小さな頃から見ていたはずの鮭箱がカッコイイと思ってしまったのである。誰がデザインしたかもわからない独特のフォントで印刷された新巻鮭の文字。聞いたことのない地名や記号がやたらと力強く書かれている。一体これはなんなんだろうとそこから僕の鮭箱への探究が始まった。
家に使う材料として譲ってもらった鮭箱を加工して壁に貼ってみる。お、良いぞ!だが、妻からは柄がうるさ過ぎるとクレームが。それならば家具にと修理した椅子の座面に貼ってみる。気に入って3脚も作った僕に、妻は何が良いのかわからないと一言。
めちゃくちゃかっこいいのにな、と思いつつ理解者がいないまま仕事の合間に僕の鮭箱工作は続いていた。
一年ほど経ち、仕事を手伝いに来てくれた家具職人の友人が作りかけの鮭箱のカバンを見て、かっこいい!と言った。何故これを完成させないのかと。
それまで共感してもらえることのなかった僕は、でしょでしょ!と気をよくして鮭バッグを完成。その鞄を持って打ち合わせに出かけ始めた。その鞄をみて僕も何か作りたい!と言って来たのがUターンで地元に帰って来たギター職人。彼に鮭箱を渡すと、ウクレレが出来上がった。
これは、鮭箱を作っている人に見せねばならない。僕はそう思った。地元の建築資材屋さんのツテを頼りに、釧路の木箱会社を紹介してもらい、鮭バッグ、シャケレレ、鮭スツールを持って釧路へ向かった。
釧路の木箱屋の社長は最初、鮭箱を分けて欲しい若者が来たのだと思った、とその後語っている。実際のところ僕らは作ったものを見てほしかったのと、どんなところでどうやって鮭箱が作られているのかを見たかっただけだった。
鮭箱で作られたバッグやウクレレ、スツールを見てびっくりした社長は、その後木箱作りの作業や自分の工場だけではなく、木箱の材料となるトドマツの製材所や新巻鮭を作っている水産加工場に連れて行ってくれた。
こうしてますます鮭箱が好きになった僕は、社長の紹介のもと、他の木箱工場にも作ったものを見てもらいに行くようになり、どんどん鮭箱や鮭に詳しくなっていった。
そのうち、鮭箱があると聞けば声が掛かり、ついに鮭箱のデザインを頼まれるようにもなった。
鮭箱で作れないものはない。本気で思う僕は様々なものを作り、鮭箱を通じて沢山の出逢いが生まれた。何度か展覧会を開催し、ARAMAKIプロジェクトとして、メンバーも40人を超え、鮭の研究者に料理人、本屋から米農家まで鮭を食べ酒を酌み交わすことも今なお続けている。そして、鮭の定置網の漁師さんの船に乗せてもらって漁を見たり、鮭漁師と一緒に酒を飲んだり、イベントを開催したりするようになった。
息子からは、お父さんは鮭大工だね、と言われるようになった。
僕はまた今日も鮭箱を積んで北海道の道を走る。行き先は釧路か根室、羅臼にウトロ。気づけば道東に詳しくなり、馴染みのお店、知り合いも増えた。次の目標は鮭箱のミュージアムを作ること。
僕と鮭箱の旅は続く。